Mさん(当時3歳、8歳の母)


長男がまだよちよち歩きのころ。
なんとなく、公園などでの違和感だったなあ。特に砂場や遊具で。
「○○ちゃん、それはおともだちのだから触っちゃダメ」
「順番でしょ」
「やりたいときは、かして、でしょ」
「○○ちゃん、いいよ、でしょ」
「じゃあ、おやま一緒につくってみようか」
「つぎはおみせごっこする?」
おお、「かして」と「いいよ」はセットなのかあ。
おお、こんなに世のお母さんはこどもとマンツーマンであそぶのかあ。
う~ん、そうかあ?どうしてもいやなときはないのかなあ。
ことばがなくても、なんとかなることもなかったりしないかなあ。
こんなになにからなにまで、大人にいろいろいわれたり、
遊びも決められてしまうのは、おもしろいのかなあ。
もうちょっと、子ども自身でできるんじゃないかなあ。
そのほうがおもしろそうだけどなあ。
こんなことをなんとなーく思いながら
だいぶ危なそうなときと、お友達をけがさせてしまいそうなとき以外は
あんまり口出ししないでぼーっと過ごしていると、
ちょっと白い目で見られて、うーん、居心地はよくないなあ
あんまり人がいない公園いってみようかな
あんまり人が来ない時間帯にいってみようかなあ
なんてやっているときに、他の外あそびのグループに行ってみた。
そのときは、ああ、ほかにも似たようなことを思っている人たちがいるーっと、
すごくほっとしたのをよく覚えています。
そこからいろんなことがあり、いまはこちゃっこいに寄せてもらっています。
そして、最近また思うのは、「外あそび」はとっても素敵だけれど、
わたしにとっては「外で遊ぶこと」自体は、そんなに重要ではないかもしれないなあ、ということ。
子どもを信頼して、あんまりほめたり叱ったりもせず、どうしても気になるところ以外は、ただただ見守ることこそが大切で、
それを都会で実現しようとすると、外で遊ぶ今のこちゃっこいの形がやりやすいぐらいなんだなあと思います。
 
えー、なにそれ、そういう考え方するの、へーそうなんだあ
でも、ぼくはそうでもないなあ、どうしようかなあ、
まあ、やってみる?あれ、なんとなくおもしろいかも
いやあ、今はあんまりいいかな、こっちがいいなあ、なんて言おうかなあ
ほかの人にいってもらう?いやあでもなあ
遊びのさなか、子どもたちの中で、いろーんなことがまきおこっているんだろうなあ
「違ってる」ってことが、おもしろいときも、しんどいときもあるよね
でも、「違ってる」ってすっごいすっごいおもしろいんだよなあ
それって、まず違っていることをひしひしと感じて、
あれこれしているうちに、うわあ、なにこれそうなの?
そんなこと思ったことなかったけど、へー、そうなるの、
なにそれー、どひゃー、みたいな経験が必要で。
全然うまくいえないけれど。
「違ってる」ってことをおもしろい、と思えると、最強ではないかとひそかに思っている。
「遊び」という言葉を日本語でとらえると、どうしてもただ遊んでるだけに感じてしまう、と言っている人がいたけれど、
遊び呆けてる、ただただ好きなことしてる、と思ってしまうけど、
自発的にしている遊びを通しては、いろんなことがまきおこっていて、
一人でなんかやっているとき、こうしたいのに、全然できなーい、もうやだ、でもやりたいんだよなあ、でもできなーい、
どうやったら自分でできるだろう、いや、これは今の自分の力ではできないのか、どうしよう、どうやったらいいんだろう、
なんていう葛藤が、いーっぱいあるだろうし、
さらに、自分と違う人と一緒になにかしようと思うと、そりゃあもう、さらにいろいろまきおこるわけで、
どうやったらこの人を誘えるか、気が乗らないときに誘いをことわれるか、から始まって、
遊び始めても、あれやこれやとやりとりは続くから、ずーーっとまきおこりっぱなしで。
こうやってあれこれ考えたり、こうしてみようかと自分なりのやりかたを工夫したりして、
そうやって手さぐりで身につけたものは、じわじわと染みていって、その人の一生のものになるんじゃないかなあ、と思う。
 
これするんでしょ、これするならこれをこうしてこうしないと
え、もう、しなくていいの、さっきやりたいっていってたじゃーん
え、そんなにそれしたかったの、えー、そんな素振りしなかったじゃーん
うちの小さい人は、普段はわりとぼーっとファンタジーなタイプなのに、
自分が「ここぞ」と思うことや、やりたいことに対してはものすごくかたくなだった。
それはわが子が一歳半ぐらいから、じわじわとやってきた。
うーん、そうかあ。これはなんかちょっと考えなきゃならないなあ。
「やるなら本気でがっつり、やらないなら一切やらない」と、
わりと白黒をはっきりつけたがる私は、それがわが子に通用しないことをさとり、
なんとなくはっきりしない、このグレーな感じにだいぶ戸惑った。
そこから、子どもは小さいんだからいろいろ決めてあげないと、ちゃんと手伝ってあげないと、と今までは思っていたけど、そうじゃなくて、いろいろできないことは多いけれど、気持ちもあるし、言葉でなくてもそれを表現する手段もあるし、
この小さい人は、もうちょっと自分でいろいろできるんじゃないかなあ、
その可能性はおもしろそうだなあ、ちょっとやらせてみたいなあと思いはじめた。
小さいけれど「人」なんだよな、大人は、大きい「人」に過ぎないんだな、と思うようになった。
小さい人はいろいろできないことが多くて、感情のコントロールを習得中で、
大きい人はいろんなことをやったりやられたり、経験が豊富で結果を知っていることが多いけれど、
小さい人にはそこに至るまでの、途中のあれこれ、がおもしろいんじゃないかなあと
そこをすっ飛ばしてしまうのはもったいないなあ、と思うようになった。
そこで、まずは、
【できるだけ先取りして何か言わない】
【ほんとに危なそうなとき以外は叱らない】
この二つから始めてみた。
ただ、小言をいわないことは気を付けたけれど、それ上手だねえとおだてることはやっていた。
その後、なにかで「それ上手だね」とほめると、
子ども自身が上手にやらなきゃいけない、と思い始めるためあんまりよくない、というのを見かけ、
ほーっと思い、「上手だねえ」などと褒めることもあんまりしなくなり、
ほんとに素敵だ、と思ったときだけ、「それ素敵だね」
そうじゃないときは、「それ赤いね」とか、「○○っぽいね」とかそういう表現にしてみたら、なんだか私の肩の力がぬけたようで、お互いのやりとりが少し楽になってきた。
そんなこんなで、「あんまり手も口も出さないで、見守る」のってなんだかいいなあ、と思い始めた。
 
ある子が持っているみかんを食べたいなーと、じーーーーーっとその子の目の前にすわって見てる子がいる。
でも、相手の子は、あんまりあげたくないなあと、じーーーーーーーっとみかんを握っている。
すると、しばらくして、うーん、なるほど、こんなに長い時間みててもだめなのね、とあきらめて立ち上がる、みたいなことが起きる。
見守るのが楽しくなってくると、こういう言葉でないやりとりを、「おー、無言でいろんな思いが交差してるなあ」とおもしろく感じるようになった。
そういうやりとりは、時には、じっと相手に見られるのが嫌で思わず相手を押す、とか、
じっと見つめているのに耐えられなくなって思わず相手のものを奪う、などという表現に発展するときもあるけれど、そういうやりとりも、1対1ならやらせてみたいなと思うようになった。
それはいくら大人が口をすっぱくして言い聞かせたところで、身も心も、痛み、嫌な気持ち、は大なり小なり自分で経験しないと、身に染みていかないだろうな、人を思いやれないんじゃないかな、と思ったからだ。
小さいときにおしあいへしあい、やったりやられたりの経験がないまま、もっと大きくなってからいきなり喧嘩すると、力加減がわからなくなってしまう、と聞いたこともあった。
でも、そんな風にやりとりを観察することを楽しんでいると、人がいない公園や、比較的、寛容だったいくつかのプレーパークでも、なかなかしんどくなってきた。
同じような対応をするお母さんもいたりはしたけれど、少ないうえに、毎回会えるかもわからない。そうでもないお母さんにはとても気をつかう。
やりとりの一部始終を見ていると、ああ、ほんとに嫌だったんだろうなあ、言葉で表現することが難しくて、「押す」という表現しか出てこなかったのかもしれないなあ、と思う時でも、押した場面だけを切り取ると、押した方がとにかく悪くて謝らないといけなかったりして、うーん、これは子ども同士、お互いに納得できるのかなあと、もやもやすることが多かった。
そんな時に、
「ここが嫌だったの?それともこっち?こっちかあ」
「○○はこれが嫌だったんだって、ああでも、○○はこれがしたかったの?」
「ああ、そうなの。そうなんだって」
と、なんだかすっと間に入ってそれぞれに伝えて、さっといなくなったりして、
それによって、なんだかちょっとすっきりしている人たちがいて、
ほーっ、そういうやり方、なんだかいいなあ、と思った。
それがさいこさんだった。
何の理由もなく、ただ、どん、とするのが楽しくなってしまった人をとめたり、
1対1じゃなく、ノリで争いの場に参加しようとする人をとめたり、
ただ好き放題やらせるのではなくて、
いやいや、それは違うでしょ、違くないかい、と伝えるときは入ってくれる、
そんな存在が(主に)いるところに、うちの小さい人を行かせてみたいと思うようになった。
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なんだかつれづれと書いてみるとなんだかえらそうですが、当時はこんなにはっきりと言葉にすることもできなくて、けっこういろんな方向にふらふらもしたし、ただただ、なんとなーく、これは違うんじゃないか、なんとなーく、こっちがいいなあ、と、ほぼほぼ直感にたよって、なんとなーくここに行きつきました。
今、わりとすっきりした気持ちでいるので、それを言葉に乗せてみました。
これと同じ思いのお母さんを探しているわけでも増やしたいわけでも、
こうしたらいいんじゃない、ともさらさら思ってもおらず、
こちゃっこいに来ている、ほかの人たち(大きい人も小さい人も)がどんな思いで来ているのかも私はあんまり興味がないのですが、ただ、なんとなーく来てみたら、わりとおもしろいかもしれないよーとだけは伝えたいです。